私たちは日々、さまざまな出来事に出会いながら生きています。うれしいこともあれば、思い通りにならないこと、できれば避けたかった出来事にも必ず出会います。病気や別れ、失敗や人間関係の苦しみ、こうしたことは、自分の力ではどうにもならない場合が多くあります。では、何が人生を分けるのでしょうか。それは、その出来事をどう受け止めるかという「心の向き」です。同じ出来事でも、「なぜ自分だけが」と苦しみ続けることもあれば、「この経験の中で何をいただいているのだろう」と、少し見方が変わることもあります。出来事そのものは変えられなくても、その受け止め方によって、人生の歩みは大きく変わっていくのです。しかし私たちは、そんなに簡単に前向きに受け止められるほど強くはありません。つらいときには落ち込み、恨みや不満の心が起こるのが、私たちのありのままの姿です。
浄土真宗では、このような私たちを「煩悩具足の凡夫」と見つめます。つまり、自分の都合でしか物事を見られない存在である、ということです。だからこそ、親鸞聖人は、自分の考えや努力に頼るのではなく、阿弥陀如来のはたらきに身をまかせる道を示してくださいました。「どのようなあなたであっても、決して見捨てない」という大きな願いに照らされるとき、私の見方そのものが少しずつ変えられていくのです。苦しい出来事が起きたとき、「なぜこんなことが」と問い続ける心が、「この私をも包んでくださるはたらきがある」と気づかされるとき、出来事は変わらなくても、その意味は変わっていきます。そこに、ひとりではないという安心が生まれます。人生を決めるのは、出来事そのものではありません。その出来事をどう受け止めていくかです。そして、その受け止め方さえも、仏さまのはたらきの中で育てられていくものです。どのような出来事の中にあっても、「見捨てられていない私」として生きていく、その安心をいただきながら歩む道が、お念仏の人生です。
