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下山の景色

以前五木寛之さんの「下山の思想」という本を読みました。その当時はそこまで思わなかったのですが、私自身の老いについて真剣に考えるようになってきました。

 私たちは人生を、知らず知らずのうちに「登り坂」として生きてきました。若い頃は、努力すれば報われる、がんばれば何とかなる、自分の力で切り開いていける、そう信じて歩んできたのではないでしょうか。けれども年を重ね、病や老い、失敗や別れに出会うと、人生は思うようにならなくなってきます。これまで当たり前にできていたことができなくなる。自分の力ではどうにもならない現実に直面する。そのとき、人生は「下山」に入ったと感じられるのかもしれません。

 作家の五木寛之さんは、人生の後半を「下山の時代」と呼びました。下山は敗北ではありません。下山には、下山でしか見えない景色がある、と言われます。浄土真宗の教えから見ますと、この「下山の景色」とは、自分の力で生きてきたという思いがほどけ、実は多くの縁に支えられて生きてきたのだと知らされる景色です。親鸞聖人は、自らを「煩悩具足の凡夫」と見つめられました。立派になったから救われるのではない。正しく生きられたから救われるのでもない。どうにもならない私のままで、すでに阿弥陀如来に抱かれていた――それが浄土真宗の救いです。下山の途中で、私たちは多くの荷物を降ろしていきます。人と比べる心、役に立たねばならないという思い、自分はまだ大丈夫だという思い上がり。それらを降ろした先に見えてくるのが、できなくなっても、弱くなっても、見捨てられないいのちの姿です。人生が下り坂に入ったとき、それは救いから遠ざかるときではありません。むしろ、救いがはっきりと見えてくるときなのです。下山には、下山でしか見えない景色がある。それは、私が生かされていたという事実が、静かに、しかし確かに立ち上がってくる景色なのです。

南無阿弥陀仏