
今月の言葉は耳馴染みのある方もおられるかと思います。
この言葉は「浄土真宗の救いのよろこび」という言葉の一節です。
2009年本願寺において「拝読 浄土真宗のみ教え」という本が発行され、その中におさめられている言葉です。その書籍の中には、
「浄土真宗の救いのよろこび」は『領解文』のよき伝統とその精神を受け継いで、浄土真宗の救い、信心のよろこびを自ら口に述べる文章です。
ご家庭における日常の勤行や、寺院における法座のご縁など、さまざまな場面で繰り返し用いて、み教えに出あえたよろこびを深めていただければと存じます。
とあります。当時の和上様方が心血を注いで作成されたと聞いています。この言葉を聞いた時は非常に分かりやすく浄土真宗の肝要がおさめられてると思い、以降法務の折にも拝読するようになりました。
しかし、本願寺の総局が変わった時にこの言葉が廃止され、以降本願寺で拝読されることが無くなりました。しかしそれ以降も住職はこの大切に拝読させて頂きました。これからもこの言葉を通して浄土真宗のみ教えをお話させて頂きたいと思います。
阿弥陀如来はどこか遠い浄土で私を見守ってくださっているのではなく、また私が探していく存在ではありません。たとえば、中央大通りの向こう側によちよち歩きの子どもさん(お孫さん)がいてるとしてください。その子に向かって「坊や、そこにいては危ないよ、こっちに来なさい」と声をかけるでしょうか。そうではなく、自分自身が道路を渡り、
その子を抱きしめ「もう大丈夫よ」と声をかけるのではないでしょうか。阿弥陀さまはこの私のところにまで来て「もう大丈夫、南無阿弥陀仏」とよびかけてくださっています。私がよびかけるのではなく、私によびかけてくださっています。そんな阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきが「南無阿弥陀仏」とこの私に届いているという肝要をこの言葉が教えてくださっています。